目標を持たず「楽に生きる」

みなさん、明けましておめでとうございます。2013年はとにかく忙しく過ごしてきました。多分あとから身体にガタが来るだろうなぁと感じるほどです。仕込んだことの結果は2014年に順次出てくることになるけど、いずれにしても仕事の話なのでココに書くことはできないので、激務の中でぶれなかった人生観を語ってみようと思います。

ちなみに、久々にブログを書こうと思ったのは、こちらのエントリに刺激を受けたから。
誤解されやすいけれども実は本質的な、「目標をもたない」という生き方|Lifehacking.jp

楽に生きる

ブコメにも書きましたが、僕は3年くらい目標らしい目標を自分に課さずに過ごしてきました。それはなぜかというと「楽に生きたい」からです。20代の頃、仕事でつぶれる、苦い経験をしました。ほんとうに長いトンネルのなかを光もないまま過ごしているようでした。どうやったらこんなに苦しまずに生きられるんだろうかと考えて至りついたのが座右の銘「楽に生きる」。これに従って目標は持たないようにしています。

楽の反対は苦

「楽」の反対は「苦」です。楽に生きたければ苦をなくすしかありません。

では「苦」とはなにか。つぶれて3ヶ月、それをつきつめていくと自分が描く自分像にあることに気づきました。「できるエンジニアでありたい」「何年後に起業したい」ほかは今考えても思い出せないくらいなので、きっとくだらない妄想だったんだと思います。

  • なにか得たいと渇望すること
  • 得たものを失うのを恐れること

自分がどうありたいと思うが故に苦しむ。いろんなことがあるでしょう。子どもが欲しいと願い、子供が出来ればその子を事故や病気で失うのではないかということを恐れる。最新スペックのガジェットを手に入れれば、それを超える新製品が出たときに感じる喪失感。数え上げるといったいどれだけ自分が決めつけた世界に暮らし、その固定観念にグルグル巻きにされているか気が付きます。

生きる意味

では「苦」を避けて生きることに生きる意味があるのか。すなわち、目標のない人生に意味があるのか、目標もなくただ生きることに何の意味があるのか。次第にそう考えるようになり、心にぽっかりと穴があきました。「生きることがすなわち苦なら、死ぬのが一番楽だなぁ」そう思わざるを得なかったのです。「でも死ぬのは怖いな」。解を得るのに1年くらいかかった気がします。

その後、生に意味を見いだし、座右の銘に「生きる」という言葉を得た過程は、決してゼロからイチへの変化ではなく、段々と意識が変わるようなものでした。ただひたすら目の前のことに取り組んでいるうちに、全てがゆっくりとうまく回り始めたような感覚です。

今思うのは、周囲が求めてくれる「役割」に応えることが生きる意味だということです。よく「生かされている」という言葉を目にしますが、まさにその感覚です。

自分のために目標を立てる生き方(崩壊・・・)

ただ無心で無欲を貫く生き方(なんだか空虚)

周囲が求めてくれる役割=世界に溶け込む生き方(今ここ)

誤解して欲しくないのは、周囲の期待に「必ず応えなければならない」と考えているわけではないという点です。「必ず期待に応える自分」を描くことではないです。「◯◯をお願いしたい」そう言われたら、やれることはやると言うし、やれないことはごめんなさいという。でも、ちょっと背伸びすればやれそうなこともやるし、冒頭に書いたように身体的に辛いのを乗り越えればやり遂げられることも、それが楽に生きるためだと思ったらやりきる。

他者からフィードバックを得る

そんなこんなで、目標を設定をすることをやめて3, 4年。皮肉なことに目標を設定することが大好きだった自分が10年前にノートに書き付けた目標に非常に近い状況にあります。一度は捨て去った目標です。

振り返ると、多分、僕は恵まれた環境にいたようです。自分のやった仕事はダイレクトに結果になってフィードバックが返ってきます。フィードバックは自分という存在を感じさせてくれるものです。

ミクロな視点ではフィードバックがないこともあるでしょうけど、家族がいるひとなら、それはもうしめたもの。身近な人からのフィードバックを大事にすべきです。僕自身、嫁さんの支えがなければ今はないでしょう。こんなにできた嫁さんは世の中にいないんじゃないかくらい思います。

あんまり有名人の言葉とかメモったり覚えたりしないですが、記憶に残っているマザーテレサの言葉があります。

大切なことは、遠くにある人や大きなことではなく、目の前にある人に対して愛を持って接することだ。

近くの人にいきなり愛の豪速球を投げつける必要もないので、普段通り生活するだけです。そして時折訪れる求められる瞬間に誠実に対処するのみです。

考えてみると、自分が悪いサイクルに陥っているときは、他者からのフィードバックではなく、自分という閉じられた系で物事を考えがちな時だと思えます。

目標=苦か

「目標=苦」のような構図で書いてきましたが、個人的には必ずしもそうではないと思っています。目標を持たないことはたしかに本質で必要十分条件ですが、それは完全に欲望を捨てきった場合のみ成り立つことです。そういう完全な状態を目指すとそれが自体が苦になるので、ある瞬間瞬間に訪れる欲や情熱と上手に付き合って、「楽」を優先することにしてます。

実際、仙人のような達観した世界観を持っている必要は全くありません。僕もいまだに新しいiPadに胸は踊るし、好みなルックスのお姉さんを見れば心沸き立ちます。でもその瞬間に得るもの失うものが色々と脳裏によぎるわけです(嫁から三行半とか)。そうするとすーっと妄想は引いていくし、また沸き立てば同じ思考の繰り返しです。2012年にはランニングの年間走行距離の目標をぶちあげてしまって、勝手にランニングから疎遠になったこともありました。すぐに目標は無視です(笑)

そして、中期的な視点で「こうなったらいいな」、という思いは自分を苦しめるレベルにはないと思うので、それは大事にしています。

冒頭で紹介したmehoriさんのエントリでもこう書いてあります。

毎日やっていることが中目標を満たす方向性をもっているというボトムアップ式なら、それは明確なハードルを設けずとも、ゆるやかな航路でそれを達成することができますし、途中の進路変更も楽なのです。

自分で自分を苦しめず、「楽に生きる」。2014年もこれで行きます。

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